明治期における貨幣の歴史

統一しなければならない問題が出てきた

三貨制度といった江戸時代において金貨と銀貨もようやく市場において中心的な貨幣として認められることになったものの、根本的な問題がまだあった。それは東日本と西日本における用いる貨幣が主流なのかという点だ。東は金、西は銀と、どちら共に価値があるものは明暗を分けることとなり、何とかして全国基準として統一しなければならないという課題が明治時代にてようやく取り組まれることになる。しかしそれ以外にも問題が出てくることとなり、明治になった直後に発布された新しい貨幣が流通することになったものの、あまりに信用性に乏しい出来の悪い造りだったこと、そしてそんな貨幣が出回ってしまったことによって、偽造通貨も作られるようになるなど明治維新が行われた直後の日本経済はまさしく大混乱だったと、称して問題ないほどだったということだ。貨幣についてもそうだが、またこの頃にはようやく中心的になる『紙幣』が登場することになる。

紙幣といえば現代では三種類のお札が中心となっているが、初めてお札が作られるようになった当初も実は三種類だったことを知っているだろうか。ではここからは日本のみならず、現代社会において圧倒的な地位を築き上げている『紙幣』について考察をして行くことにしよう。そしてこの紙幣というものが実は明治時代にようやく作られたものではなく、その前の江戸時代から既に原型となる紙幣が作り出されていたことから、話をしていこう。

物々交換してみる?

地方的な紙幣からが始まりを告げる

日本の紙幣において現存している最古のお札としては1623年に製造された『山田羽書』と呼ばれる伊勢にて利用されていたものだ。それ以前の文献に『楮幣』と呼ばれた紙幣が有ったと言われているが、記録だけで語られているだけで現物は実として存在しているわけではないため、その存在を疑問視している声が多くあるため、日本で紙幣の歴史を紐解いていくと先ずは山田羽書がその原点であると言われていることが多い。この頃には既に江戸幕府が誕生している時代でもあるが、紙幣発祥の地は江戸ではなく中部にある伊勢から誕生したというのも意外なところではないだろうか。そして紙幣とは元々、地方色の強い貨幣として用いられていたことも大きいだろう。それが後に中心的な貨幣として用いられるようになるのは明治期となっているのだが、発行当初は市場の信頼を得られるようなものとしては扱われていなかった。

明示が始まる前の江戸においても紙幣は発行されており、『藩札』と呼ばれるものだ。この藩札と呼ばれるものには種類があり、札の種類には『金札』・『銀札』・『銅札』というものが流通していたという。その他にも様々な札が広く知れ渡っていた時期もあるが、やはりこの頃に配布されたお札に関しても江戸や近隣国でのみ使用されているなど、地方色の強いものだった。

全国共通の紙幣の誕生

本格的に日本全土で使用することが出来る紙幣の誕生は明治初期において発行された『太政官札』と呼ばれるものだ。この札は十両から一朱の五種類生産されたが、額面が大きすぎて日常的な取引においては非常に使い勝手の悪いものとして見られてしまうなど散々だったという。全国共通のお札として初めて誕生したは良いものの、発行額に制限が敷かれることもなく、また流通高が急増してしまうなど流通価値は本来の価値が低下してしまうなどの問題が出てくると同時に、やはりこの札に関しても贋作が出回るなどと収拾がつかないような状況を発生させてしまうなど、紙幣としての価値はもちろんだが、政府の信用を落としてしまうこととなる。その後『民部省札』なるお札も発行されるまでは良かったものの、こちらも社会的な信用に値しないものとして見られるなど流通自体があまりよろしくなかった。

貨幣についてもっとくわしく

新貨条例の誕生

日本という国を再建するために作り出された明治政府だったが、数々の難問を更に更に作り出してしまうなど、スタートこそ好転することが出来ていないところを見るに至っては、誰もが期待していたようなものではなかったと落胆に近い感情を作り出していたことだろう。そんな状況を何とかして覆し、臣民の理解を取り戻すためにも明治政府としては貨幣制度の一新を図ることとした。その制度というものが『新貨条約』と呼ばれるものであり、これにより日本の貨幣史は大きく塗り替えられていくことになる。

この条約が誕生したことにより、それ以前から問題となっていた日本産の金が国外へと流出するという事件を抑制するため、金本位制を採用し、一円を一両とするなどし、また偽造札が流通していた問題などもに対しては鋳造機を香港から仕入れるなどして対策を練ったおかげで近代的な貨幣の鋳造が行われるようになるなどの動きを見せるようになった。

さらに新紙幣を作り出して統一化するために計9種類の紙幣を作り出すなどして、あまりにも私的に作られすぎていた紙幣を共通したものへと変化させていくこととなる。ただこの頃はまだそこまで高度な印刷技術が広く浸透していなかったこともあり、ドイツにて紙幣の製造を依頼するなどして対策を講じていた。ちなみにこの時に作られた紙幣の事を『ゲルマン紙幣』、もしくは『明治通宝札』などと呼ばれることになる。

そうした中、日本ではまた新しい動きが始まろうとしている機運が高まり出していた時期でもある、それが銀行というものを創造することだった。そうした民意に答えるために政府は1873年6月11日に第一国立銀行を設立すると共に、この時により金貨との交換業務を廃止する代わりに銀行券の発行をするなど新しい動きが活発になり始めていた。初期こそ政府のする政策に対して社会的地位は皆無に等しかったほど不信を招いたにも関わらず、そのような風潮がいつの間にか掻き消えるように主流の取引として行なわれるようになった。

またドイツに紙幣製造を依頼していた時期もあるが、近代独立国家という立場を重視するとした場合において自国で使用する通貨を製造しているとは立場上いかがなものかと考えられるようになり、その後国産化出来るように海外から技術者を招いて、これまでの日本には無かった新たな技術を導入することになる。その後無事技術体得をすることに成功した日本は印刷工場を設立し、開局した印刷局を拠点として日本産紙幣の製造を、それまでになかったほどの技術水準で製造することを可能とするまでに至るのだった。

その後西南戦争をきっかけにしたインフレーションの発生に伴っての日本銀行条約の発布と施行、中央銀行の誕生とそれに伴う日本初の銀行券が作り出されるなどした結果、日本国内でそれまで乱立していた紙幣というものが統一されたのは明治32年12月のことだ。

わらしべ長者になりたいあなたへ