日本の貨幣変遷

日本における最初期の貨幣という文化の誕生

世界基準で行われていた貝殻貨幣という市場取引の材料として用いられていたことを説明したが、日本において貨幣というものの考え方が普及するようになったのはいつの頃からか、考察していこうと思う。先ず最初に貨幣という存在が表舞台に出てくるようになったのは奈良時代における遣唐使が行われていた時代によって、現在に至るまでの貨幣という道標を刻むことになるものだ。今でこそ何だかんだと中国に対してあまり良い印象を抱いていない人が多いが、日本における貨幣の歴史を紐解いていていくと全ての始まりは中国伝来から、ということを踏まえて考える必要があるのかもしれない。もしかしたらこうした事実を踏まえているからこそ、中国に住む人々は日本に対して反感的な態度を示しているのかもしれない、などと考えることも出来るのではないだろうか。

当時の中国最大の国家だった唐、その国から伝えられることになる日本において商取引に用いられる貨幣の起源となったのは『開元通宝』というものだ。世に言う円形状の銅貨としての起源となり、こちらの貨幣を参考にして後の日本貨幣が誕生することになる。そうした中で史実において語られる貨幣を見ていく場合において、始めて日本で生み出された貨幣とは何なのかと考察してみると、文献などにおいては『富本銭』が最初期の日本で始めて作られた貨幣とされている。ただその前に別の貨幣が作られていたことも、きちんと記録として残されている。その貨幣とは『無文銀銭』と呼ばれるモノで、日本において一番古くに誕生した銀貨とされている。ただ当時は主に金が主要取引に用いられていたため、銀はそこまで大きな価値があるものではなかったと見ていたため、これを貨幣として最初気にするのは無理があるとも考えられた。そのため現在でもこの無文銀銭を貨幣とするべきか否かという論争については決着がついていないという、学者間の意地が怨恨をどこかで買っているような部分も出ているかもしれない。

ココでそのような討論を行っていると話が終わらなくなるので手短に済ませるため、一先ず『富本銭』を原点としておこう。ただ本当に貨幣として用いられていたかどうかあやふやな部分があるなどの問題も残っているので何とも言えない部分もあるにはあるという。こちらについてもまだまだ結論というものは決着するまでかなりの時間を要することになってしまうかもしれないので、難しい話は専門家に任せることにしよう。

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経済活動を目的として作られた貨幣、和同開珎

話の筋をきちんとするために、日本における貨幣というものが本格的に使用された歴史について分析して行くと、その中で必ず日本史というものを勉強していればテーマとして出てくることになる『和同開珎』というものを考えていこう。この和同開珎の誕生こそ日本において経済循環の取引アイテムとして用いるため、作り出された最初の貨幣という価値を見出したものだ。この貨幣というものを生み出すことになったのも、ある意味日本が当時の中国と対等に向き合うために作り出されたと考えられている。日本という国がただ与えられているだけで黙っていると思わないことだ、そう主張するように作り出された日本独自の貨幣だが、本質的な意味では開元通宝を元にして生成されているので、完全な意味でのオリジナリティが出されているわけではない。ただ和同開珎の誕生によって、日本でも物の取引には貨幣を用いるという考え方が貴族を中心に浸透していくこととなる。

一方で、この貨幣という考え方が出たのにはもう1つ当時の政府が抱えていた問題に起因している事を窺い知れることが出来る。唐に倣って貨幣制度を作り出そうとなったとき、同時気に行われていたちょっとした出来事が絡んでくる。それは平城京遷都という非常に大きな出来事だ、この時に用いられる経費を当時主流だった銅地金と貨幣価値の間によって生じる差額をものとしなければならなかった。そのため、遷都が完了すると共に政府によって平安時代で貨幣を鎮造する活動は率先して行われるようになる。こうした貨幣は和同開珎のみならず、様々な貨幣を生み出すこととなり、そうした貨幣誕生の一連の流れを『皇朝十二銭』と呼ぶ。ただ和同開珎後に作られることになる12種類の銅銭は年月を経ることによって徐々に粗悪な造りとなっていき、銅が主流だった成分の中に鉛の含有量が多くなったことで、政府が作り出す貨幣としての価値は失墜することとなってしまうのだった。

貨幣の軌跡を追ってみる

こうして日本にも貨幣制度の根本たる土台が警醒されることになったものの、それでもまだこの頃は活発な流れを形成しているわけではなかった。その原因としてはやはり銅貨の生産量が圧倒的に足りなかった事が一番影響している。そうした中で日本が執った行動というのが中国で用いられている貨幣を日本でも使用することが出来るように体制を整える、というものだった。その中で主流の取引アイテムとして用いられたのが『宋銭』であり、この銅貨が日本の中世史において中心的な貨幣として用いられることになる。

それでもやはり宋銭でも数に限りがあるため、豪族などのそれなりに権力を有している貴族などによって作り出された銭が作られることになった。それらを『私鋳銭』と呼ばれるモノだが、これらはあくまで中心的な銭として利用されていたわけではない。そもそも非常に造りが粗悪だったこともあり、やがて『鐚銭』や『撰銭』として見なされるようになっていった。

貨幣についてもっとくわしく

金貨と銀貨の歴史

日本の貨幣制度における銅銭も非常に重要な歴史のターニングポイントとなっているが、もう1つ忘れてはいけない銭の存在を忘れてはいけないことがある。日本も元々はそれなりに資源を有している国であり、その中でも特に金山と銀山が豊富にあったこともあって、金と銀を用いた『金銭』と『銀銭』を生成するようになった。金銭と銀銭が誕生したのは760年のこと、この頃日本で初めて金貨が作られるようになる。ただ主力はやはり銅銭だったこと、金銭と銀銭そのものが非常に高価な代物だったこともあり、市場として考えた場合には使用している人の数はあまり多くなかった。

そんな中で金銭と銀銭が主流となり始めたのは戦国時代のこと、この頃には金山と銀山の開発なども精力的に行われるようになり、得の戦国大名たちによって金貨と銀貨が大量に作られることとなる。そしてその鉱山が東日本では金山が、西日本では銀山が非常に多く散見していたこともあって、東では金が主流となり、西では銀が主流の取引アイテムとして用いられるようになる。

江戸時代の貨幣制度

戦国時代において金山と銀山の開発が積極的に行われるようになったものの、それでもいまだに市場単位としてはあまり用いられることは無かった金銭と銀銭だが、銅銭を入れた三貨幣という体制を確立したのが、こちらもやはり歴史の分岐点でもある江戸時代がその原点となっている。当時の江戸幕府は貨幣制度を『三貨制度』とする金貨と銀貨、そして銅貨とし、さらにそれぞれを専用の機関となる『座』にて生成するなど貨幣を確立させていくことに尽力していった。ただやはりこの中でも金は格別であり、色々ときな臭いことをするときなどにおいては賄賂として用いられていた、なんてこともあったかもしれない。そしてこの頃から金貨と銀貨は用いられる頻度も分かつことになるなど、結論からしてもあまり分かりやすく流通せしめる事は無かったということだけが明らかになるだけだった。

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