物々交換は、経済の原点

人間社会の原点であり、そして現代でも

昨今の経済界において蔓延している取引材料となっている金銭という存在、知らないという人は先ずいるわけはない。この世界においてお金という存在は全ての人間においてなくてはならない存在となっている事は目に見えている。基本的な違いとして、一人ずつで仕入れることが出来るお金の桁が違っているということだ。色々な要因や環境、そして本人がお金に対してどれ程執着しているかで稼げる額も異なってくるもの。お金を目的に働いているんじゃない、自分は今自分の生きがいのために働いているだけだという臭い台詞を吐く人もいるかもしれませんが、それはそれ、これはこれというものだ。そもそもお金を大事にしていない人はいない、というより優先順位はあれどお金は誰にとっても必要なものだ。生活をするために必要な食料や情報ツール、衣服やら住居、挙げていくと切りがないものにお金を用いなければならない。お金というものに固執した考えを持っている人ばかりではないかもしれないが、中にはお金という言葉を市場に愛している人と言うのは数え切れないほど存在しているものだ。そういう意味では実際に市場で億単位のお金を動かしている投資家などは、お金を愛しているからこそそんな仕事が出来るわけだ。そうでなければ先ず経済を自分で動かそうとするような事をすることも無いはずだ。

徒然と色々と話をして行くのもいいですが、お金こそ世界最高のものであるということを筆者はいいたいわけではない。単純にお金という経済というものを考えたとき、お金の循環こそこの人間社会の根底にある動力源であるということを定義したいだけだ。お金がなくてもできる事はもちろんある、だが今の世の中ではお金が無ければ基本的に何かをするにしても、どうしても障害となって自分がしたいことを思う存分に行動することもままならない。何事も損得という天秤で傾いているため、人は常に損をすることを好まず、得をすることだけを追求している生き物だ。心が狭いとかそんな問題ではなく、単純に人間という性質を考えるとそうであると固定できるだけだ。

ただ、こうした見方は現代社会においてのことであって、それ以前のまだまだ人間の歴史においてお金がまだ誕生していなかったころにおける経済活動の一環として、何を差し引いて現在の経済にも勝るとも劣らない活動を行なっていたのかを考えてみると、経済という礎を作り出した最初の生産行動を知ることが出来る。それは『物々交換』というものだ。お金がない時代において、物と物を交換することで自分と相手、どちらも得をするようにというものすごい単純な仕組みだ。交換する物によって得をする事が前提となっているので、条件こそ敷かれていないものの実際に物々交換をすることになったら、対等となる価値のものを差し出す必要がある。

そんな物々交換というものをもう少し考察して行く中で参考となる昔話がある、とても有名で最後に主人公がお金持ちになって生涯裕福に暮らすことになる『わらしべ長者』だ。この話はなにかと話のネタに用いられることもあるので、考察して行ってみよう。

わらしべ長者という話

わらしべ長者という話は誰しも子供のころに必ず一度は聞いたことがあるという人がほとんどだろう。話の大筋としてはとある貧乏な男が貧困から脱しようとして観音様に助けを請うた時に、旅に出て一番最初に触れたものを大事にして行くようにしろといわれる。そういわれたことをきっかけに男は旅へと赴くことになる、すると観音堂から出た直後に転んでしまい、その際に掴んだのが1本の藁だったことですべての話が始まりを告げることになる。

その後物語が進行することで、男は徐々に不思議な由縁の中で藁から徐々に物々交換を交わしながら果ては大金持ちとなって行くのだった。こういう話になるわけだが、何とも不思議な話だと子供の頃から思っていたものだ。というより、子供の頃初めて見たときには全くといってこの話はどういうことなのだろうという、話そのものの趣旨を見出すことが出来なかったというのが本音だった。嬉しいとか、悲しいとか、そういった感情が全くといっていいほどこみ上げてこなかったというのが実情だ。かくいう、今もこの話が正直どういう話なのかと聞かれたら答えられるかどうか、微妙なところだ。実際にこの主人公がどういった経緯で藁から果てには、屋敷というものを手に入れられることになったのかを時系列にまとめてみると、下記のようになる。

一本の藁→アブをつけた藁→蜜柑→反物→馬→屋敷と妻

どこのサクセスストーリーだといいたいくらいの話しなわけだが、このわらしべ長者というストーリーで最終的に屋敷を手に入れて裕福に暮らせることになるわけだが、一部の話は屋敷に住んでいた主人の娘と結婚をすることになるという風に物語を結んでいる。筆者が初めてわらしべ長者を読んだ時も最終的に主人公に、妻が出来て幸せに暮らしたという結末を迎えている。この話の主旨になっているのは、お金というものを伴わない取引において近代以前の、それこそ物々交換時における背景を舞台にしている。しかし主人公は根本的に経済を目的とした行動をしているのではなく、そこになるのは『需要と供給の均衡の上に成り立った物々交換を行った結果として、富を手に入れるという目的を達することが出来た』、という点に注目している。こうした活動についてはとある法則に基づいていると説明することが出来る。その法則とは『一物一価の法則』というものだ。

一物一価の法則とは

ではその一物一価の法則とはどのようなものなのかという話をして行くわけだが、至極一般的な見解として述べられている法則の説明としては『自由な市場経済において同一の市場の同一時点における同一の商品は同一の価格である』という風に説明することが出来る。こうかかれて理解出来る人は中々に頭の良い人と述べることが出来るのだろうが、そうでない人にとってははっきり言って何のことか分からないだろう。噛み砕いて説明すると、こうした市場経済において同じ市場に出ている商品はその時点でそこにある商品と同じ価格を意味しているということだ。例え単価としての違いが生じていたとしても、同一の市場に出品されている時点で潜在的な価値に関する事無く、市場単位において同価値として見なせるようになるのがこの法則の特徴と言える。

この法則はまさしくわらしべ長者の話を参考にしてみればよく理解できるだろう。例えば主人公が最初に藁からアブへと藁をつけたものを持っているとき、泣いている子供が泣き止んだことで欲しがり、その対価として蜜柑との交換を持ちかけられたという話を参考にすれば分かるだろう。この時、どちらに価値があるのかと尋ねたとき、大部分の人が蜜柑と答えるのではないだろうか。藁も確かに使い道はあるのかもしれない、しかしアブをつけている藁を使用するときとはどんなときか、想像することはできない。かくいう蜜柑はその場でいつでも好きなタイミングで食事が出来るという点で、圧倒的に蜜柑に対して潜在的な価値を見出せる。

それにも関わらず、物語上ではアブのついた藁を貴重として等価として蜜柑を提供した、つまりこの時泣いていた子供とその親にとってはアブのついた藁は蜜柑と同等の価値があると見なしたのだ。法則として当てはめても、この時においてアブのついた藁と蜜柑は同等の価値があるとなり、そして取引材料として十分として交換をするには惜しくないものだと双方が判断した結果、物々交換が成立した。

もしもこの時、物の交換の時系列が少しでも狂っていたとしたら、どの時点でも対等な市場関係は成立せず物々交換は伴うことはないと言い切れる。そうなると主人公は観音様を信じた結果がこれだと落胆することになる、そんな結末を迎えてしまうということだ。

わらしべ長者から何を悟るか

どんな昔話においてもメッセージ性を感じさせる事があると感じる人もいるだろう。もちろんそれはこのわらしべ長者においてもそうだ、これを現代の経済的な価値観で考えた際にはどのような影響を及ぼすことになるのかと考えたとき、先ず信じるは言われたことを正直に、そしてまっすぐに信じることの大切さということだろう。そもそも主人公たる男は貧困に喘いでいた貧乏人だったこと、こんな状況から一刻も早く脱したいと考えた末、観音堂にて観音様に助けを請い申した際に言われた事が、『旅に出て、最初に触れたものを大事にするように』とのことだ。この教えを守ったからこそ、男はボロ衣のような生活から一転して、衣食住に困らない生活、そしてある筋によっては妻をも娶ることが出来るまでになったことを考えれば、大変素晴らしい話だ。

ではこうした体験を現代社会に当てはめて考えてみようと思う、人からある一言、社会における最低限これだけは守らなければならないことを考えた際に伝えられた信念を忠実に守っていれば成功できるかどうか、という点については正直成功するという保証もないだろう。もちろん志し高く持っていればそれだけ可能性はあるかもしれない、しかし今ではこうした転機を迎えられたとしてもその先に待っている大人の思惑に絡めとられてしまい、自分の考えていた道筋とは違う方向へと転がり落ちてしまう、などといったことになりかねない時代でもある。人間が一人でも多く物事に関係してくることになったら、それだけ社会の仕組みはややこしくなる。

だが信じるということも大事なことだろう、その結果としてわらしべ長者のようなことを本当になし得ることが出来るとするなら、物々交換というよりかは信じたことで大きな富を獲得することが出来たと伝えたかったのかもしれない。

物々交換という手法は今も継続しているか

世界経済の起点、人間が生産活動を行っていく中で生まれ始めた物と物との交換は徐々にその影響を及ぼしていくことになる。しかしわらしべ長者の世界のように、古代期以降の社会の流れを見ていくと分かるとおり、とある物と物々交換で仕入れるという考え方は廃れ、金品での取引へと移行する。これは先に紹介した自由経済の中における同一の市場に出品されている商品が同一の価値があるという風に見なすことが出来なくなっているためだ。

例えば使い古した布と食料との交換を望んだとしても、布と食料では価値が異なっている判断されるため、取引材料として用いることはできない。やがて物々交換からお金を作り出すようになり、そして現代では商品に付けられた値段を支払うことで物を手に入れる、こうした仕組みが当然のように行われるようになった。現代で物々交換というものを実際に行っている人もかなり希有だろう、どこかで頻繁に行っている人もいるかもしれないが、現状の社会状況を鑑みれば既に経済活動の中で物々交換が主流とは呼べないことだけは間違いない。

しかし現代の経済を考えたとき、物々交換というものは確かに行われていたことだけは間違いない。そのため物々交換から読み解く経済の、貨幣を使用するまでに至る歴史について、ここからは少し話をしていこう。

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